友人葬を行った人の中には、僧侶のいない葬儀を目の当たりにして、親類から責められたり、 「あんな葬儀では、故人が浮かばれない」と後悔する人も多いようです。
葬儀は、一人の人間の一生をしめくくる大事な節目であり、また三世の生命の上からは、未来世 の幸・不幸を左右する重要な儀式です。
もし、間違った葬儀を行えば、家族の願いとは逆にかえって故人を苦しめることになります。
「学会員は、友人葬と決まっているから仕方がない」とあきらめないで、 今一度、正しい仏法に基づく葬儀について考えてみませんか?
誰しも家族の遺志を尊重したいものです。
しかし、故人の遺志は友人葬を願ったものだったのでしょうか。
「自分の葬儀は、友人葬で・・・」といった故人は、おそらく創価学会の一方的な報道により、日蓮正宗に対する 大きな誤解を持っていたからに違いありません。
今こそ、あなた自身が、自分の目で日蓮正宗の真の姿、教えを確かめ、大切な家族の成仏を左右する葬儀について 考える必要があるのではないでしょうか。
日寛上人は「臨終用心抄」に
「臨終の一念は多年の行功によると申して不断の意懸けに依る也」
と記され、生前の信心によって功徳を積んでこそ、安らかな臨終を迎えられることを御指南されています。
しかし「本人の信心によって成仏が決まる」と言っても、その信心が正しいものでなければならないのは当然のことでしょう。
しかも葬儀は亡くなられた方の一生をしめくくる大事な儀式であると同時に、来世への旅立ちの場でもあるのですから、どんな 形でもよいはずはありません。
「当家引導雑雑記」との書には
「仰に云く不知案内にして亡霊の引導は悪道に堕すべし、是は法然・弘法に超え過ぎたる罪障なり」
とあります。
つまり、葬儀の導師として正しい心得も知らず、ただお経が読めるというだけで、 学会幹部が導師を行う友人葬は、故人を悪道に堕とし苦しめることになります。
また、導師を務めた学会幹部(儀典部員)は「念仏の法然」や「真言の弘法」よりも大きな罪障を積むことになる、 ということです。
こうした学会の友人葬で送ったとしても、故人が喜ぶはずはありません。
そもそも、現今の創価学会の教義や本尊はみな仏の意に背く「ニセモノ」です。
ですから、葬儀の方式がどうのとか、僧侶に頼むか頼まないとかいう以前に、創価学会の「友人葬」で送られる故人は、死後の安らぎを 得られるどころか、かえって謗法の悪因縁によって、大変な苦悩を受けなければなりません。
大聖人の教えは、日蓮正宗に脈々と受け継がれています。
今こそ勇気をもって日蓮正宗寺院を訪問し、大聖人の教えに基づいた正しい葬儀の在り方を求めるべきです。
「人の寿命は無情なり。
出づる気は入る気を待つ事なし。
風の前の露、尚譬へにあらず。
かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。
されば先ず臨終の事習ふて後に他事を習ふべし」
人の一生はいつ幕が閉じるかわかりません。
日蓮大聖人は「先ず臨終の事を習ふて」と仰せられ、何よりも先ず先に成仏するための教えを習うよう御教示されています。
参考:創価学会破折リーフレット