真言宗では、「法華経」と「大日経」で説く一念三千の理は同じであるが、 大日経には法華経に説かれていない「身業印契」と「口業真言」の二事が説かれているゆえに優れていると主張しています。
「理同」とは法華経の一念三千の法門が「大日経」にもあるというものですが、この説は
善無畏・金剛智等の説にたぶらかされて、天台僧の一行が、大日経の「心の実相」の文を「大日経義釈」に 「彼に諸法実相と言うはすなわち此の経の心の実相なり」といい、法華経の「諸法実相」と大日経の「心の実相」は同じであると解釈したことによります。
しかし、十界互具・百界千如・一念三千の法門は「法華経」のみに説かれるものです。
その現証としての二乗作仏・久遠実成は大日経には説かれていません。
真言宗で説く一念三千は、善無畏が中国に大日経を弘めるため、すでに広まっていた法華経から盗み入れたものです。
ゆえに、法華経と大日経を「理同」と主張する真言の教えは、誑惑の邪義であります。
また「事勝」とは、大日経に印と真言が詳しく説かれているから、法華経よりも優れているという主張ですが、
法華経においても方便品に、
「為に実相の印を説く」
とあり、譬喩品にも
「我が此の法印は、世間を利益せん」
と説かれており、大日経だけの独説ではありません。
たとえ、手に印を結び、口に真言を唱え、即身成仏を説こうとも、十界互具・一念三千の実義もない大日経は、
空理・空論の邪説です。
このように真言宗の教義は、道理文証のうえからも善無畏や空海の主張が
「欺瞞と誑惑に満ちた主客転倒」
であることがわかります。
この教えを信ずるならば、一家にあっては柱が倒れ、一国にあっては亡国となるのは明らかです。
※参考「諸宗破折ガイド」69〜70ページ